*講師の肩書・プロフィールは講演当時のものです。

セミナー第三回

 

 第3回 Group With メンタルヘルスセミナー

海外で暮らすこどもの「ことば」について考える
子どもの成長を支える「ことば」を育てる


講師  石井 恵理子氏 
     東京女子大学現代文化学部言語文化学科助教授
場所: 東京ウィメンズプラザ 第一会議室 
     2004年 11月25日(木) 10時から12時

海外で暮らす子どもたちの「ことば」の問題は、赴任家族にとって大きなテーマです。こどもの発達・成長に「ことば」がどのように関わっているのか、東京女子大学現代文化学部言語文化学科助教授 石井恵理子先生にお話を伺いました。

講師プロフィール    
専門  日本語教育(主に,教師教育,年少者に対する日本語教育,異文化コミュニケーションとしての日本語教育,漢字教育)
略歴  学習院大学大学院人文科学研究科博士課程前期終了
インターカルト日本語学校専任講師、筑波大学留学生教育センター非常勤講師などを経て、昭和63年より国立国語研究所日本語教育センターに勤務。 平成12年4月より文部省(現文部科学省)海外子女教育専門官を併任(平成14年3月まで)。平成13年4月より16年3月まで国立国語研究所日本語教育部門第一領域長,政策研究大学院大学客員教授(併任)。 平成16年4月より、現職。
 
 
 
 
講演

異なる文化・言語環境で子どもを育てている、あるいはそういうことを想定していらっしゃる方々に、今日は「子どもの成長を支える『ことば』を育てる」というタイトルでお話をしようと思います。

1.子どもの成長とことばの発達
子どもの成長 
子どもが成長していくということは「ことば」と非常に深い関わり・繋がりがあることだと言えます。子どもの成長・発達には、認知や思考の働きというような知的な面での「あたま」の発達、身体そのものや自分の体の感覚(距離感など)や手・足などを適当にコントロールして作業するなどの「からだ」の発達、人間関係をうまく作る、相手の視点や気持ちを理解する、自分の心を豊かにし表現するなどのような「こころ」の発達など様々な側面があります。
 
周囲の人々との関わりの中で、子どもは育つ
こうした様々な側面が総合されて子どもが社会的な存在として人間になっていくということは、子どもがひとりでに育っていくのではなく、周囲の人々との関わりの中で育っていくのだということです。周りとの関わりということを考える時に、「ことば」が大事なものとして認識されます。

「ことば」によって十分な関わりが得られ、また十分な関わりによってことばは発達する
子どもでも大人でも、自分から働きかけた時に、相手から適切で豊かな反応が返ってきたらとてもうれしくなり、また次の働きかけをしようと思います。つまり、コミュニケーションによって人と人との関係がより密接なものになっていきます。そして、コミュニケーションではことばが重要なはたらきをします。一方、関係が密接になって人と接する機会が増えれば増えるほど、それによってことばの力も伸びていきます。
子どもは周りと密な関係を持って話をしながら色々な表現を身に付けたり、自分の働きかけの仕方によって相手の反応が変わることに気が付いたりするということで様々な発達が起こるわけです。ことばは相手との関係を作っていくことや広げていくことに大きな働きをするし、そのような関係が深まれば深まるほど、広がれば広がるほどことばも発達していくというように、ことばの発達と人とのコミュニケーション、人との関わりは相互に関係して育っていくのです。

乳児と親のやりとり コミュニケーションの原型  <経験の共有化>
相互の関わりの中で「ことば」が発達するということは、赤ちゃんの頃の子どもと親のやりとりを考えてみてもコミュニケーションの原型のようなものはさまざまなところで事例がみられます。
「喃語」(赤ちゃんが発する、まだことばにはならない音)でも、親にとって耳慣れた発音に近い音を赤ちゃんが発声すると親の反応が違っている。赤ちゃんはさまざまな声を出しますが、日本人であれば日本語のことばとして認知できる音に近いものの時はお母さんの反応が違う。少し大きくなって、赤ちゃんから「ママ」ということばに近い音が聞こえた時は、母親は強く反応し喜んで「そうそう、ママよ、ママ」と言ったりする。喃語のレベルでも、それを周りの大人が自分の世界との関係性の中でうまく反応を返していくこと、ある音を出すとお母さんが喜んでくれる、あやしてくれるなどの特殊な刺激が返るということが繰り返されて、赤ちゃんの発声を変えていくということが観察されるといいます。

赤ちゃんがミルクを飲んでいるとき、途中で飲むのをやめて母親の顔をじーっと見つめて何かを言いたそうな表情をすることがあります。ミルク飲みをやめて途中で母親と視線を合わせると、たいてい母親は赤ちゃんに「どうしたの」「もうお腹一杯なの?」というようなことばをかけます。そういったアイコンタクトの中で「愛着」「連帯感」のようなものが育っていく。赤ちゃんには「視線を合わせる」というような積極的な機能があるということはさまざまな研究で言われていますし、「人の顔」(特に目)に強い興味を示すことも実験で分かっています。そのような行為に対して親の側からも視点を合わせてくれると、赤ちゃんの働きかけはさらに強くなります。
他にも、赤ちゃんの「指さし」のしぐさも親の側はそれに意味を見出そうとするし、親のほうが「これ、何?」と指で指し示したりすると赤ちゃん側もそれを「指」そのものではなく記号として働くことに気がついて学んでいくことがあります。

一歳に満たない赤ちゃんの色々な行動を見ても、子どもは大人の働きかけを引き出す能動的な働きかけをする存在だということがわかります。同時に、周りの大人がそれに対して適切に関わっていくことによってそれをもっと引き出すことができる。子どもの行動をとらえて何らかの意味づけを親がしていっている、そのことを子どもは親とのやり取りを通じながら学んでいっている、というプロセスだと思います。このような「やりとり」は赤ちゃんの時だけでなく、子どものそれぞれの年齢でも、子どもの何気なく言ったことばに対して親が返した反応というものは、「意味づけ」をしていることが多いのです。

異言語環境への移動
今回のテーマは「海外で暮らす子どものことば」ですが、異言語・異文化の環境に行くということは、今まで自分が暮らしてきた言語文化社会から全く違うことばや文化に動くということで、移動に伴って一時的に周囲との十分な関わりが得られなくなる可能性があることが大きなポイントだと思います。

家庭の中での親との関係は変わりませんが、周りの子どもたちと遊ぶような年齢(保育園や幼稚園などに通う年齢)の子どもたちにとっては、それまで自分が働きかけをすると適切な反応がたくさん返ってきて、自分もそれに関わりながら「関わり」を広げることができてきたのに、それが一時的に閉ざされてしまうという環境になる可能性があるわけです。保育園、幼稚園の先生のような保護してくれる大人との間の関わりというのも大きなことですし、年齢によっては周りの子ども同士との関わりというものが出てきます。

子ども同士の関わりは4、5歳になってくると密になってきます。それまでは大人が主導で会話が進んでいくわけですが、4、5歳になってくると十分子ども同士で世界を広げていきます。子どもの世界をことばによって広げていっている時期に、周りの子どもたちとうまくやりとりができない状況になると、ことばによって相手と関わりを深くし、その関わりの中でことばなどを育てていくということがうまくいかなくなる場合があります。
保育園など周りに先生や他の子どもたちがいろいろな活動をしている場にいるのですが、その中で一人、常に「ボーっとしている」状態で過ごしてしまっている子どもがいます。異文化環境に移るということで「ことば」が分からなくなるということにとどまらず、それまで子どもが周りから得ていた「関わり」が得られなくなっている状態です。そういう状態が長い期間続くと、ことばの発達だけでなく、心や知的な側面での発達に関しても深刻な問題が出てきます。一時的な発達遅滞が生じてしまうのです。 
 
周囲との関わりの持ち方は年齢によっても違います。1歳、2歳の子どもでは、先生と自分の話すことばが違っていても、あまり気にせず、文脈がしっかりしていると何を言われているのかを理解し、それで過ぎてしまうということがよくあります。気にせずに自分の言いたいことを言い続けることで、周りとの接触はそれなりにはかられていきます。しかし、もう少し年齢があがって、先生の話すことばが自分のものとは違っていると意識するようになると、自分の方から話しかけるのを止めてしまうことがあります。相手が一生懸命話しかければ話しかけるほど、逆に分からないことばの中に自分が閉じ込められているような感じになってしまうため、耳を精神的に塞いでしまうのです。分からないことは自分の中に受け入れたくないということになっている状態です。
文脈に沿って十分理解できる形で言語が提供された時には「あっ、先生が言っているのはこういうことだ」と内容の理解とともに新しいことばがキャッチされ、そこで学びが起こるのですが、分からないことばがまるでシャワーのように大量にザーッと浴びせられると、これは駄目だという思いが先に立ち、相手のメッセージも、新しいことばも学ぶことができなくなってしまうのです。

「ボーっとそこにいる」という子どもの場合は、その状態が一年あるいは二年と長く続いたまま過ごしてしまったという深刻な場合もあります。親のほうは「新しい環境に子どもを入れておけばそのうち慣れて学ぶだろう」という期待で保育園や幼稚園に送り出しているですが、結局一年たっても二年たっても同じような状況から抜け出せない。子どもにとって周りからの働きかけを自分の中に取り込む手がかりが見つかりづらい環境だと、自分にとってそれらを「ないもの」としてしまうことが、むしろ自分にとって精神的に安定するということになります。訳の分からないことばを聞こえないものとしてしまうことで自分を守るわけです。

異文化環境では子どもをその異文化環境に入れさえすればいいのではなく、周囲との関わりがその子にとって適切な関わりなっているかを周りの大人たちが注意深く見守っていく必要があると思います。

2、ことばによる社会化
コミュニケーションによってことばを学ぶと同時に、社会的文化能力を学ぶ〈社会化〉
ことばを使う能力だけではなく、「ことば」のやり取りをすることによって社会文化能力を学んでいます。ある場面ではどう振る舞うべきか、何をするとそれは誉められるのか、文化によって違うことはいくらでもあります。「ことば」に関しても意味は分かるが(運用面での)ずれを感じることがあります。それは文化・社会によって様々な規範的な振る舞いが違うからです。学校なども勉強を教えてくれる所ではあるが、先生方は「集団できちんと行動できる子どもに育てる」ということに日々色々な発話をしているのかもしれません。時間通りに登校するとか、鐘が鳴ればきちんと席に着く、発言する時はきちんと立つなどルールが学校では大事です。社会に出て行く子どもたちに「こういう振る舞いをして欲しい」とか「こういう観念を身につけて欲しい」ということが一方の隠れたカリキュラムとして色濃くあるわけです。家庭の中でも当然そうで、親が子どもに色々言うことは、そのようなメッセージが含まれているわけです。

メッセージがどのように伝えられるか
直接的なメッセージとして「こうしなさい」「ああしなさい」というだけではなく、実はここが難しいのは、メッセージの伝えられ方それ自体も文化によって違うということです。

「まだ、お話声がきこえるね」VS[静かにしなさい]
一つの象徴的な例として塘利枝子(ともりえこ)先生が台湾の幼稚園で行った調査を紹介します。
台湾では今、日本語で保育する幼稚園や保育園がいくつかできていて、そこには日本人以外に台湾人の子どもや中国語を母語とする台湾人の先生がいます。そこでの子どもと先生のやり取りの中で、子どもが騒いだ時に、台湾の先生が「うるさい」と言い、それに対して日本人の先生方が「子どもに『うるさい』と言うのはよくない、私たちはそのような言い方ではなくて、『まだ何かお話が聞こえるわねぇ』とか、『アリさんの声で話しましょうね』とかそういう言い方をする」とコメントしている場面が観察されたそうです。
日本人の先生は「うるさい」とか「静かにしなさい」と言わずに『まだお話し声が聞こえるわねぇ』という表現で子どもに“静かにしよう”という「察し」を求めるわけですが、そういうメッセージを出すことが良いと考えるのは、ある意味で非常に日本の社会文化に根ざした行動です。しかし教師と生徒、親と子どもという関係では先のような場面には「直接的なメッセージ」のほうが当たり前だと考える文化圏もあるわけです。
そのような文化圏から日本へ来た子どもは「まだ何かお話が聞こえるわねぇ」と先生に言われた場合、文字通りに受け取って「そうだねぇ」とニコニコ笑っていることもあるわけで、そしてそれを聞いた先生は「なんという子だ」と思うかもしれません。また逆に、「うるさい」という台湾人の先生に対して、日本人の側は、子どもに対して威圧的であって良くないと、「文化的な振る舞いの違い」ではなくその人の「人となり」の評価としてしまう可能性があります。
 大人同士の場合でもそういうことがありますが、子どものことを考えてみると、子どもは親とか教師のそのような発話(「察し」を要求する表現)をうまく解釈して理解しなければいけない、日本の社会で育つ子どもたちは、家庭、保育園、幼稚園、学校などでの毎日の生活の中でそのような訓練を受けているわけです。

 教科書で扱われる色々な文章をみても、(日本の教科書は)直接的に何かを記述するよりは、やわらかい全体的な表現から「どんな気持ちだったか」などを読み取らせることを授業の中でもたくさんしています。
 
前述の中国の調査からのもう一つ面白い例として中国と日本の教科書を比べた調査を紹介します。

(日本の教科書)  ある女の子の物語。朝、お母さんと喧嘩した私(女の子)がプリプリしながら登校していると、小さい一年生の子どもが玄関先でお母さんに「学校へ行きたくない」とぐずっている場面に遭遇した。そこで「私が連れて行ってあげる」と申し出ると、その子どものお母さんは「よろしくね」と言って頼んだので二人で手をつないで登校した。手を握って歩いていくうちにだんだん自分の心が解けていくような気持ちがしたということが書いてある。

(中国の教科書)  親が何かを学校に届けてきた。その子どもが「親の恩の有難さを分からせてくれてありがとう」と親に言ったという文章が書いてある。

直接的な表現が書かれている中国の教科書に比べて、日本の教科書では描写を読んで「その子の気持ちはどんな気持ちでしょうか」というような読み取りが求められています。そういったメッセージを読み取る作業を積み重ねていくと自分もそのような方法でメッセージを出すことが適切であるということを学びんでいきます。単純に言葉の意味を知るだけではなく、『相手との関わり』の中でのメッセージの出し方そのものを学ぶということも学校の授業でやっているわけです。
それが異なる文化を移動した子どもたちにとっては一時的に大混乱を起こすことにもなりかねないのです。全体として「何を良いことと考えるのか」「どうすべきなのか」ということが違うということは、子どもにとって『人との関係』を作っていく、色々な場に適切に参加していくことがなかなか難しいわけです。

異文化環境への移動
社会の中で他人とうまく生きていく能力(ソーシャルスキル)を育てていく上でも「ことば」を使う側面が重要になっていくが、そのような段階で言語圏・文化圏を変わることがどのような問題を生じさせるか周りの大人側が了解しているかどうかがとても大切です。 

大人は文化の違いなどを冷静に判断し「日本ではこうなんだ」「日本人は普通こうするんだ」と相手に主張し伝えることができますが、子どもの場合はそれを学んでいる途中で、育った社会の文化と移動先の文化の違いをまだ認識していないわけです。日本ではいいとされていたことが移動先の地域ではだめということや、日本ではほめられていたことがこちらでは怒られるということがあるわけで、自分がそれを頼りに学んできているはずの社会のルールが混乱してしまうことがあります。そのことが原因で乱暴になったり引きこもってしまったりする場合もあるので、そうした混乱があり得ることを周りのおとなたちが理解しておくこと、そうすると対応力が違ってくるのです。

3.「学ぶ力」を支える言語能力
 学齢期を迎えた子どもには社会的文化能力以外にも「学ぶ力」を支える言語能力という側面も考えていかなければなりません。

ことばはぺらぺら・・・なのに授業がわからない?
 日本の学校の中にも非常に多くの外国人の子どもたちがいて、現場の先生方も日々奮戦している状況です。表面的には十分コミュニケーションができるように見える子ども、例えば友達とも不自由なく会話ができたり先生の指示通りに動くことができるなどのように「日本語はもう大丈夫」と思われた子どもが、授業になると発言が全くなかったりテストが全くできなかったりする。このギャップに現場でも悩む時期が大分ありました。

日常生活におけるコミュニケーションを行なうためのことばの力        「生活言語能力」
抽象的な概念を操作し、認知的に高度な活動を行なうためのことばの力  「学習言語能力」
 
この二つの言語能力は分けて考える必要があります。

生活言語能力
日常レベル(買い物や友達と遊ぶ時など)のことばは、特徴としては具体的な場面や状況に密接に結びついています。
例えば買い物ではお店の人と自分の役割がはっきりしています。店に入れば店側の人は「何か買いにきた」と思い、客が商品を持ってレジにくれば「これを買いたいんだな」と分かる。このような状況や場面ではやりとりされることばのバリエーションは限られています。ですから、たとえ発音が違っていたり知らないことばがあったりしても推測をもとに動くことができます。分からないことばが出てきても「この場面では、この意味にちがいない」と文脈から理解して、その場で新しいことばを学ぶこともたやすいでしょう。「いま、ここ」で展開している場面状況とともにことばを学ぶので、コミュニケーション場面でのことばと行動がまるごと経験でき、自然な言語行動が身に付くのです。これが日常レベルでのコミュニケーションの実際です。
子どもはこのような学び方はとても上手です。ことばを体系的・分析的に観察・整理し、この文章ではこうなるはずと考える力は大人の方がすぐれていますが、子どもは場面全体での行動や、ことばをまるごと状況の中に含めて理解する力が強いので、あっという間に場面に合った自然なやりとりができるようになります。

小学校低学年ぐらいまでの子どもの様子をみていると、最初に3つぐらいの適切なことば、たとえば「だめ」「入れて/貸して」「わたしの/○○ちゃんの」などといった表現を覚え、コミュニケーションをすすめていきます。これらのことばは子供同士のやりとりを構成しているキーワードです。まず文法を学ぶのではなくて、仲間に入れてもらいたい時、拒否したい時、自分の所有を確保したいという、子どもどうしで遊ぶときに必要なことばをまずキャッチして、周りの様子を見ながら動いて色々なことを学んでいけます。そのような学び方は大人より得意なわけです。遊びに加わるきっかけさえ掴めれば、多くの子どもたちは非常に自然に、状況の中で学んでいきます。年齢にもよりますが、早い子どもでは半年もたたないうちに、どの子が日本語が母語ではない子か、一見して分からないぐらいに見事に溶け込んでいるようなこともあります。
 日常的な生活言語能力について欧米の例も挙げると、アメリカのスペイン語と英語の言語背景を持っている子の事例では2年ぐらいあれば同年齢の子と同じ能力が身に付くと言われています。もちろん、幅があるものですが。

学習言語能力
 「学習言語能力」は「いま、ここ」の文脈から切り離されたところで、ことばによって知識を伝え、考えをまとめていける力です。学校の勉強の中で必要とされるものは、抽象的な概念を扱うこと、考える力を要求するものが多いのです。例えば、問題について「なぜそうなるか、理由を考える」とか「二つを比べるとどうなっているか考える」とかは言語操作だけではなく、考えている中身についても高度な認知力が必要になってきます。作文についても中学生になって「日本の社会について」「戦争についてどう思うか」などについて書くとなると、認知的に高度な作業になります。歴史の勉強のように、今、目の前に手がかりがないことについて学び始めるわけで、事柄が「見て分かる、触って分かる」という、「いま、ここ」の文脈から切り離されたことの操作をするのが学ぶということに繋がっていくわけです。文脈の中で状況や場面に即してことばを使うのとは随分違う力だということです。

学習言語能力の特徴
学習言語能力を育てるにはどうしても「時間」がかかりますし、環境の中で自然に身に付くものではなく、組織的な学習が必要になります。たとえば、学習と繋がりの深い「読み書きの力」は組織的で時間をかけた学習が必要となります。
 海外から日本へ来た子どもたちにとっては漢字の学習が問題になってきます。日常のやりとりでよく使う和語は日常生活でたくさん耳に入ってきますが、学校の勉強で使う各教科の専門用語は多くが漢語の語彙で、日常会話ではあまり耳にする機会がありません。教科書で初めて目にしても、ことばとして聞いたこともなく、また漢字も読めなければ、推測することもできません。日本語で教科学習をする場合、漢字が分からないことは、読解はもちろん、語彙習得の難しさなどにも関係していきます。
 もう一つの特徴は、一つの言語で十分な学習言語能力を身につけていると、別の言語を勉強した時に、その言語でも使える力として活きると言われています。第一言語でしっかりとした作文が書ける子どもは、新しい言語の力がある程度ついてくると、論理性のある筋道の通った文章が書けます。逆に言うと母語でもそういう訓練ができていない子どもは別な言語で「ぺらぺらしゃべれる」ようになっても、論理性のある文章や構成のしっかりした文章を書けるようにはなかなかならないということです。

 学校に上がる前の段階からの、人との関係を作ることばの力の育成が非常に重要なのと同時に、学ぶ力を支える言語能力を育てていかないと、将来的な広がりに大きな影響を与えてしまい、子どもの選択肢が非常に狭まってしまいます。
 たとえば、日本にたくさんいる外国から来た子どもたちの高校進学率は非常に低いのが現実です。現在の日本社会では職業に就く場合高校卒業の資格がないと難しいものが多いので、そこではじかれてしまうことが現実的にあります。

もう一つの側面として、学齢期の子どもたちにとって学校生活は生活全般の中でとても比重が大きいですから、学校での自分に対する評価はかなり意味が大きいものです。学校で自分がどのような存在かということは子ども自身、十分分かっていて、それが胸を張っていられるような状況か、ただ毎日座っているだけの状況かによって、大事なことは自尊感情―自分に対してのイメージが肯定的なものを持てるかどうか―というところに大きく関わってしまうということです。一つでも自信の持てる教科なり勉強なりがあれば自分でも「これは苦手だが、こちらは自信がある」というように理解ができる。そして周りもそのように見るということができますが、どの教科に関しても席に座っているだけで先生の話が頭の上を通りすぎていくという感覚の子どもは、自分自身が「非常に劣った存在」「情けない存在」であるという否定的な自己イメージを持ってしまいます。

このように、子どもの生活にとって大きな割合を占める学校の授業に参加できるということは心の発達や周りと自信を持って関係を作っていくという力に結びつくという側面がありますので、学習言語能力は大事に考えていかなければなりません。

語彙力と読む力
 学習言語能力は読み書きの力と密接な関係があるのですが、読み書きの力はまた語彙力に支えられています。文法の知識があっても、その文章に使われている語彙をほとんど知らなければ文の意味がわかりません。反対に、使われている語彙がかなり分かれば文構造が多少不明でも、その文が言おうとしている意味を推測できることがあります。語彙力が豊かであるかどうかはとても大事ですが、それは語彙をどれだけたくさん知っているかという量の問題だけではなく、質の問題、つまり語彙に関する知識の深さをよく考える必要があります。
この、語彙の知識の深さという点が第二言語を学ぶ子どもたちにとってつらいところです。たとえば、海外の現地校に通っている子どもで、周囲のバックアップも得られ、現地のことばの力も順調に伸びて行っているようにみえる子どもでも、一番苦労しているのが「語彙の質」だということがあります。
単語の理解の段階には色々なレベルがあります。参考文献に挙げたバトラー後藤裕子さんは、「見たことも聞いたこともない」「見たことはあるが意味はわからない」「文脈の中では意味がわかる気がするが意味をきちんと説明できない」「単語の意味の一部分は知っている」「単語のいくつかある意味の全てを知っている。それを運用できる」という段階に分けています。
ひとつの単語はひとつの意味に対応しているのではなく、複数の意味を持つものもたくさんあります。あることばを知っていても、そのことばの意味の広がりが分からないと、実際の文章の中で意味をとることができません。たとえば、日本語の単語を聞くと、そのことばの意味が分かるだけではなく、それは話し言葉と書き言葉とどちらでよく使うか、マイナスのイメージを持つことばかプラスのイメージか、どんな人たちがよく使うことばか、似た意味のことば(類義語)、あるいは対義語にはどんなことばがあるか、など、そのことばに関するさまざまな情報を持っています。似た意味の単語がいくつもある中で、それぞれの単語のどの点が共通で、どこが違うのかということがわかることで、ことばの使い分けができ、より正確で厳密な理解や表現ができるようになります。あるいは、あることばはどんなことばと対応しているかという対義語の知識は、文章構造を理解するためのキーワードを見つけるのにたいへん役に立ちます。私たちは頭のなかに、ただ単語を詰め込んでいるのではなく、いろいろな観点でことばを分類し、それぞれの単語の関係とともにことばを覚えているのです。新しいことばを学ぶということは、すでに頭の中にできている、網の一つ一つの目のように関係づけられている語彙の中に新しいことばの網目を結ぶということです。ぴたっと結び目の位置がきまったことばは、周りのことばとの関係の中で意味を正確につかみ、きちんと使うことができますが、網目の中に位置づけられずにばらばらに頭に詰め込んだことばは、だいたいの意味はわかる、あるいは一つの意味はわかるけれど、似たことばの中での使い分けができるようにはなりません。語彙力があるというのは、ただたくさんのことばを知っているのではなく、それらが関係づけられ、細かな語彙の網目ができていることです。
第二言語では、赤ちゃんの時からさまざまな場面で、圧倒的な量のことばに触れてきた母語話者に比べ、なかなかこうした細かな語彙の網目を作ることが難しく、網目のある部分が抜け落ちていたり、粗い目になったりしがちなのは、仕方のないことです。語彙を増やすことがまず必要ですが、それだけでなく、母語話者に比べて数の上でも十分ではない語彙をできるだけ網目の中に位置づけられるような支援をすることが大切だと思います。

 語彙に関して、量、質ともに拡充していくためには、できるだけたくさん本を読むことが有効です。日常的な会話の中で使われる語彙や文型は、実は非常に限られた範囲のものでしかありません。本を読むことで、話し言葉だけでなく書き言葉の語彙を増やし、抽象的なことばや、まとまった分量の文章を構成するための接続詞や指示詞などの使い方に数多く触れ、日常会話では得にくいたくさんの語彙を学ぶことができるのです。しかし、語彙力が足りない子どもは本を読んでもわからないことばが多くて、なかなか読み進められず、読むことが苦痛になって読まなくなる。本を読まないから語彙が増えず、語彙が足りないから読むのが難しい…という悪循環に陥ってしまいます。この悪循環をなんとか断ち切るために、周囲がどんな手助けをできるかが重要になります。

読みの苦手な子は、いきなり分からないことばだらけの本を渡されても、読もうという気持ちになれません。はじめはそんなに負担なく1冊を読み通すことができる、ごく薄いもので、達成感や自信をつけながら、とにかく本を開いて読む習慣をつける。英語の教材などではよく見られるのですが、子どものそれぞれの興味に合ったものが選べ、ちょっとがんばれば読める、というスモールステップで読みの力をつけていけるような読み物を充実させることも必要です。読み聞かせも有効な手助けの一つです。自分で読める子どもでも、読んでもらう楽しさはまた別のようですし、自分でうまく読めない子は、何度も読んでもらってなれた本なら自分でもけっこうすらすら読むことができます。

また、これは先ほど挙げたバトラー後藤さんの本に紹介されていた、アメリカの学校の先生の工夫なのですが、クラスでそれぞれが読んでおもしろかった本について、どんな人に向いているか、どんなところがおもしろいかをクラスの友達に紹介するカードを書く。自分でなかなか選べない子も、自分と気が合う友達のおすすめだったら読んでみようとします。そして、毎月、一番たくさんの人が読んだ本を表彰する、というのです。一番たくさん本を読んだ人を表彰する、というのはよくあるような気がしますが、そうではなくて一番たくさんの人が読んだ本を表彰するというのは、とてもすばらしいアイデアだと思います。子ども同士を競わせるのではなく、みんなが読む本ならきっとおもしろいに違いない、自分も読んでみたいと、子ども同士がお互いの本選びに有効な情報を提供することになるわけです。


4.子どものことばの発達を促す大人たちの役割
 子どもが読めるようになるための手助けをするなど、子どもがことばの力を獲得できるよう促し、支える工夫をすることは、周囲の大人たちの重要な役目です。

 子どもの現在の発達段階にあった適切な支援をするには、子どもの能力をどうとらえるかが大事です。人が何かの力を身につけるというのは、「できない」領域から「できる」領域にいきなり飛ぶというのではなく、一人ではできないが誰かの助けを得ればできる、という段階を経ることはよくあります。親が子どもを育てていくときに、手本を見せて、いきなり「さあ、一人でやってごらん」というのではなく、その子の力に応じてさまざまなやり方で補助をします。親があらかたやって、その中で少しずつ子どもが手を出す機会をつくったり、親が手を添えて子どもと一緒にやる、子どもがやる中でどうしても難しい部分だけ親が手を出す、あるいは子どものやることを見守りながら「そこは、もっとこうしたほうがいいんじゃない」などと助言をし、うまくいくように導いたりするなど、実は皆さんがいろいろやっていることです。

子どもの発達状況にあった足場を作る
このように、子どもはその時々の力に応じて親の手助けを受けながら何かをする経験を積む中で、力をつけていくわけです。そして、「自分一人ではできない」ということでも、手を貸してもらっても全くできないというのと、ちょっと助けてもらえばできるというのは、同じではないはずです。一人でできるかできないか、○か×かという能力のとらえ方ではなく、その子の発達状況を丁寧に見て、今のその子が一人では無理だけれどちょっと手を貸してもらえばできることについて、適切な補助をすることで「できる」経験を積むことができ、できたことの喜びから、またやってみようという意欲も湧いてきます。発達心理学の世界では、子どもの発達を促す、こうした大人たちの補助を「足場を作る」ということばで表します。全く無理なことに挑戦させても、そうした経験には結びつきません。適切な支援のためにはその子どもにあった、きめ細かい調整が必要です。

第二言語習得の世界では、能力より少し高いレベルの言語インプットを理解可能な状況で与えることによってことばが習得されるといわれます。能力の範囲内のインプットではさらに力を伸ばすことにはつながらず、またあまりにもレベルの高すぎるインプットでは十分に理解することができず、やはりことばの習得には至らない。学習者の力(i)をほんの少し超えたインプット(+1)であること、そして大事なことは、それが十分に理解できるような状況の中で提供されることで、理解した事柄とそれを表すことばとが結びつき、言語習得が起こるのです。子どもの発達に合わせたきめ細かい調整というのは、この「i+1」ということにもつながります。

能力をどう捉えるか
能力というと、どうも「自分一人でできる」だと考えがちです。学校のテストをはじめ、世の中で能力を測るというと、たいてい誰の助けも得ずに自分だけの力で解決するという課題が出されます。隣の人と相談したら、「不正行為」ということになるわけです。そうした個体主義的な能力観に縛られがちですが、実際の社会生活では、実は誰の助けも得てはいけないなどという制約はそんなに多くはなく、むしろ周囲から適切な支援を得ながら目標を達成することが大事だということはいくらでもあるはずです。自分の中にたくさんの知識をため込む、技能を身につける、ということもちろん大事ですが、世の中で生きて行くには、全部自分一人でできるようになることを目標にするより、周りの人とうまく協力しあえる力とか、困ったときに助けてもらえるような人間関係を作る力を身につけるほうが、幸せかもしれません。世の中の多くの「仕事」は共同作業で成り立つもので、一緒に仕事をする人たちとの中で自分の力を活かせる力、つまり他者との関係性の中で人の力を考えるということが大事なのではないかと思います。

そうした力を養うには、たくさんの語彙や文法のルールを頭の中に覚え込んだらよいというのではなく、さまざまな人たちとの関わりの中でことばを使い、一緒に何かをするという経験が豊富にあることが必要です。最近、日本の学校ではクラスという集団での学習が成立しにくくなっているという話しが聞かれますが、子どもの知能が低いというようなことではなく、集団の中でその一員として教師の指示を受け止め、他の子どもたちと調整しながら行動するという訓練ができていないことによるようです。1対1で自分に向かって話されれば分かる子どもが、集団でのやりとりのなかで学び取ることができるとは限らない。つまり、学ぶということは具体的な状況から切り離された頭の中だけの作業ではなく、「学校で学ぶ」ということのための力は、「学校という場の空間的・物理的状況や人間関係のあり方」と密接につながっている力だということです。就学前の幼稚園や保育園などでの生活は、そのような意味で学校での学びのための準備段階となっていると言えます。たとえ1年生から現地の学校に入るとしても、言語・文化圏を移動した子どもの場合、学びの場に参加できるための準備ができているかという点で、現地の子どもたちとは準備状況が異なる可能性があります。学ぶべき内容を理解するための支援だけでなく、学ぶ場に参加するための支援として親や周囲の大人がすべきことがあるということも考えるべきでしょう。



■学習言語能力を育てるための基盤づくり
 「ことばによる世界の構築」の喜びを知ること
 文字による伝達の必要性を知ること
 学びの場に参加するための準備
* 認知的言語活動:<いま、ここ>から離れたことばの使用が不可欠
ことばによる情報の伝達、論理の構築、心情の表現など
* 多様な働きかけ
  日常生活の中での「おしゃべり」だけでは、十分ではない。読み聞かせやことば遊びなども
* 話し言葉と書き言葉の世界

Group With の手違いにより、講演後半部分の記録が残せなかったため、石井先生に後半部分を改めて作成していただきました。従って、一部実際の講演とは異なる部分があります。 

無断のコピー・転載は固くお断りします。
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